モンドリアンその軌跡と作品の紹介
ピエト・モンドリアン(1872年~1944年) オランダ、アメルスフォールト出身の抽象絵画の巨匠。
牧歌的な風景画から出発したピエト・モンドリアン(Piet Mondrian)が、垂直線と水平線、三原色(赤・黄・青)と無彩色(白・黒・灰)の組み合わせからすべてが構成される純粋造形(新造形主義)に至るまでの過程。
モンドリアンの年譜と時系列での主要作品紹介

1872年 3月7日、ピエト・モンドリアン(本名ピーテル・コルネリス・モンドリアーン)誕生。父ピーテル・コルネリス・モンドリアーンと妻ヨハンナ・クリスティナ・モンドリアーン(旧姓コーク)の2番目の子供。
・モンドリアンの父は、教師(小学校の校長)を務めるかたわら、アマチュア画家として絵も描いていた。また叔父のフリッツ・モンドリアーンは職業画家であったことから、モンドリアンも幼い頃から絵に親しむ環境にあり、14歳の時に自分は画家になりたいと思ったそうだ。
・モンドリアンの母は病気がちで、父は宗教に溺れ家を空けることが多く、長女のヨハンナ・クリスティナ(当時8歳)が家事をみなければならなかった。こうした複雑な家庭環境に育ったモンドリアンは世の中への信頼を徐々に失っていったと考えられる。精神の均衡を失うことを恐れてか、モンドリアンは生涯にわたって伴侶を持とうとしなかった。

1892年 アムステルダムの国立造形芸術アカデミーで絵画の勉強を始める。

1892年 ヘレフォルメールデ・ケルクに入会。1895年までプロテスタントの出版業者で政治家のヨハン・アダム・ウォルムサーのともに寄宿する。

1894年
用水路と橋と山羊

1898年 オランダで最も権威のある芸術賞「ローマ賞」に応募も落選。
・当時のオランダ美術界は、フランスの「バルビゾン派」(*1)の影響を受けた「ハーグ派」と呼ばれるロマン主義的写実絵画の時代であった。このことから初期のモンドリアンの絵は、ハーグ派の影響から始まり、やがてアムステルダム印象派の影響を受けるようになった。(*1)バルビゾン派とは、19世紀半ばにパリ近郊のフォンテーヌブローの森にあるバルビゾン村に集まり、古典的な風景画ではなく、ありふれた現実の田園風景を描いた画家たちのこと。ミレー、テオドール・ルソー、コローなどがその代表。

1899年
ラッペンブリンクで 聖ヤコブ教会と田園風景 ブナの森

1900年
自画像 少女

1901年
トケイソウ

1901年 「ローマ賞」に2度目の応募も落選。モンドリアンに対する審査委員会の評価は「デッサン力が不足し、また特に画面に生き生きとした動作を描きだす能力が欠如している」というものだった。

1902年~1903年 度重なる失敗が社会への失望感に変わり、モンドリアンはこの時期、無政府主義、左翼過激派らと友好関係を結ぶなどしている。
月光と風車

1904年 政治運動から手を引き、絵を描くためにプラバントのウデンに引っ越す。

1905年
風車

1906年 ウィリンク・ファン・コレン賞を受賞。画家のフルスホフ=ポルと共にエレの農家で冬を過ごす。

1907年
夏の夜 昇る月とヘイン河畔の5本の木

1908年
夜の風景Ⅰ 赤い木 エレ近郊の森 日の当たる風車

1909年 画家仲間のコルネリス・スポールとヤン・スレイタースと共にアムステルダム市立美術館で展覧会を開催する。神智学協会に入会する。前衛画家の代表者となり絵が売れ始める。

1909年 モンドリアンの母ヨハンナ・クリスティナ・モンドリアーンが死去。この母の死はモンドリアンに大きな衝撃を与え、ようやく勝ち得た大衆からの支持を自ら放棄してしまう。
橙、ピンク、青の砂丘スケッチ
点描風の砂丘
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1911年 アムステルダムの芸術家団体「現代芸術家協会」の展覧会に参加。この時、ピカソやブラックも作品を出品しており、モンドリアン(39歳)はキュビズムに刺激を受ける。

1911年
砂丘風景 ドームブルフの教会の塔 赤い風車

1911年 アムステルダムからパリに移住する(12月)この時、名前を変えて以後オランダ以外の国ではピエト・モンドリアンと名乗る。パリに移住したのはモンドリアンが同時代最大の画家と認めていたパブロ・ピカソに学ぶためと言われている。ただ、パリには知り合いもなく、ピカソやブラックと会う手だても講じなかった。
ショウガの壺のある静物1 ショウガの壺のある静物2

1912年
婦人の肖像 木々のある風景 灰色の木 花盛りの林檎の木 花盛りの木
・1912年 アルベール・グレーズとジャン・メッツァンジェの共著「キュビスムについて」が出版される。この当時のパリはキュビズム(立体派)の全盛期であった。

1913年
コンポジション木2

1914年 モンドリアンは、キュビズム的な網の目に日常生活を取り入れるには、市街地の入り組んだ建物の構成が最適であるということを発見する。
・当時、モンドリアンが到達した、抽象的な形を均等に画面上に並べるという作品のフォルムは絵画史における革新であった。

1914年
絵画Ⅲ 楕円のコンポジション 教会のファサード1:ドームブルフの教会 コンポジションNo.Ⅳ

1914年
コンポジションNo.Ⅵ この年、モンドリアンは夏にパリからオランダに戻っている。なぜオランダに戻ったかは定かではないが、病気の父を見舞うためと推測されている。この帰省に前後して第一次世界大戦が始まり、パリに戻ることができなくなる。
・蒐集家クレラー=ミュラー夫人の顧問で美術史家のH.P.ブレマーがモンドリアンに年間契約金を提供する。
・描く絵があまりにも基本要素に還元されたためか作品数は減っていく。
・この頃、モンドリアンはレイデンの画家で美術評論家のテオ・ファン・ドゥースブルフと知り合う。ドゥースブルフはモンドリアンの手法で絵を描くようになり、モンドリアンの方も博識な美術史家でもあったドゥースブルフの助言を受けながら新しい絵画についての論文を書き上げた。その後2人は無二の親友になる。

1915年
黒と白のコンポジション

1916年 ラーレンの芸術家コロニーに移る。
コンポジション

1917年 テオ・ファン・ドゥースブルフが創刊した芸術雑誌「デ・ステイル」に参加。新造形主義の理論を作り上げる。
色彩のコンポジションA 面色3のコンポジションNo.3
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新造形主義
新造形主義(Nieuwe Beelding)はモンドリアンによって次のように要約されている。

1.造形手段は、三原色(赤、青、黄)及び無彩色(白、黒、灰)の平面または直方体でなければならない。建築においては、空虚な部分が無彩色であり、材質部が色にあたる。
2.造形手段の等価性が常に必要である。大きさや色彩が異なっていても、それらは同じ価値のものでなければならない。一般に均衡は、無彩色の大きな平面と、色または材質の小さな平面との間に保たれる。
3.同様に、構成にとっては造形手段における対立の二元性が必要である。
4.持続的均衡はその基本的な対立における位置の関係によって達成され、直線(造形手段の極限)によって表現される。
5.造形手段を無力化し、抹殺する均衡は、配置と生きたリズムを生み出す比例の手段によって達成させられる。

1918年
自画像 格子のコンポジション3:菱形のコンポジション

1919年 この年の夏にパリに戻るが、ピカソが再び具象的な方向を目指していたことに失望する。また、クレラー=ミュラー夫人が贔屓の芸術家リストからモンドリアンを削除したことでブレマーからの年間契約が無くなる。

1919年
格子のコンポジション8:暗色のチェッカー盤

1920年 モンドリアンが絵画を断念することを計画。テオ・ファン・ドゥースブルフに当てた手紙に「芸術家としての最後を引退展覧会で飾り、その後はぶどう園の労働者として南フランスでやり直すつもりだ」と書いている。この年、芸術論「新造形主義」がパリで出版される。
・結局、モンドリアンはパリにとどまったが定期的な収入はなかった。しかし、オランダの芸術仲間たちが花の絵を注文する客を見つけてくれる。
菊 グラスに挿したバラ ユリ 以降モンドリアンは生活のため、この手の作品を数多く描いた。1919年~1920年のモンドリアンは主に論文の執筆を行なっていた。

1920年
コンポジションB

1921年 アトリエに戻ったモンドリアン(49歳)は、これを見れば一目でモンドリアンと分かる、明るい原色を使った新しいスタイルを作り上げる。
橙赤、黄、黒、青、灰色の絵画3 黒、赤、黄、青、水色の絵画Ⅰ

1921年 モンドリアンの父ピーテル・コルネリス・モンドリアーンが死去。
大きな赤の色面と黄、黒、灰色、青のコンポジション
・モンドリアンは油絵の具が乾くまで時間がかかり過ぎるといい、長期保存の観点から望ましくないとされる石油を溶剤として用いたので表面を洗浄することが難しい。そのため汚れたり、剥がれ落ちたりしている作品も多い。

1922年
黄、黒、青、赤、灰色の絵画2

1925年 ドイツで著書「新しい造形」が出版される。

1926年 この頃、モンドリアンは建築設計なども手がける。キャサリン・S.ドライヤーなどの蒐集家がモンドリアンの作品を多数購入。
・テオ・ファン・ドゥースブルフとの意見の違いにより「デ・ステイル」への参加をやめる。絵の中の対角線について二人が子供のように激しく言い争った、という伝説があるが定かではない。この伝説はともかく、二人には空間とフォルムに対する基本的な違いがあり、遅かれ早かれ破局は避けられなかったものと思われる。

1928年
赤、黒、青、黄のコンポジション

1930年 芸術家団体「円と正方形」と「抽象・創造」の展覧会に参加する。

1930年 オランダ、ヒルヴァーシュム市の市役所にかける絵の注文をうける。
黒い線のコンポジションⅡ 2本の線のある菱形のコンポジション

1931年 著書「新しい芸術-新しい生命」は引き受ける出版社がなかった。

1932年 アムステルダム市立美術館で、誕生60周年回顧展を開催。芸術的な姿勢を代表する作品を描いてくれと数人の友人から注文を受ける(デン・ハーグの市立美術館に寄贈するため)

1933年
4本の黄色の線のある菱形のコンポジション

1935年
灰色と赤のコンポジション
・この時期、モンドリアンは作品を量産する

1936年
白、赤、青のコンポジション 白、赤、青のコンポジション 青、黄、白のコンポジション(B)
白と赤のコンポジションB 白、黒、赤のコンポジション

1937年
線と色彩のコンポジションⅢ 黄、青、赤のコンポジション 黄と赤のコンポジションNo.9

1938年 戦火を避けるためロンドンに移り、ハムステッドの画家であるベン・ニコルスンとバーバラ・ヘップワースのもとに寄宿する。

1939年 第二次世界大戦

1940年 住居の庭にドイツ軍の爆弾が落ちたことでニューヨークに移住することを決意。ニューヨークでは芸術家団体「アメリカン・アブストラクト・アーティスツ」に参加し、数多くの展覧会に出品する。ハリー・ホルツマンを包括相続人に指定する。

1941年 モンドリアンの自伝的著書「 リアリティの真のヴィジョンをめざして」を発表。

1941年
ニューヨーク1941年/ブギウギ ニューヨークシティ1

1942年 初の個展をヴァレンタイン・デュウデンシング画廊で開催。
自画像スケッチ

1942年~1944年
ニューヨークシティ ブロードウェイ・ブギウギ

1944年 2月1日ピエト・モンドリアン死去(肺炎) 享年71歳。ニューヨーク、ブルックリンのサイプレスヒル墓地に埋葬。モンドリアン最後の作品「ヴィクトリー・ブギウギ」は未完のままとなった。
ヴィクトリー・ブギウギ
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ピエト・モンドリアン語録

・美の感動は、いつも「対象」の特有な外見によって妨げられる。だから、あらゆる具象表現から対象を抽象化する必要があるのだ。
・女性の本質は海や砂丘の横たわった線に見いだすことができる。
・人は私が表現したくないものを賞讃する。
・造形的表現は時代に基づき、時代の生産物である。
・「新たな人生」は理性と思索とによって開かれた自由空間に存在する。
・これから始まる新時代における主観の終焉。
・レンブラント 我々は間違っているのか、それとも正しいのか?
・偉大な男にとって孤独とは、自分自身を、本物の人間を、神人、いやそればかりか神そのものを認識する機会を与えるものなのだ。こうして人は成長し、(中略)ついには自ら神になる。
・女性は本質的には芸術や抽象概念に刃向かう存在だ。(中略) 芸術家というものは女であると共に男であるから、女は必要ではない。
・完熟した美は、手で触れ得るようなリアリティーとなるだろう。
・感情は精神よりも外的だ。精神は構築し組み立てるが感情は気分などを表出する。精神は極めて単純な線によって最も純粋な線をつくりあげるが、最もプリミティブな色彩しか使わない。最もプリミティブな色彩とは最も内的な色彩であり、最も純粋な色彩だ。
・芸術とは我々の内に潜む普遍的なももの直接的な表現であり、その普遍的なものが我々の存在の外に的確に現れ出たものであるべきなのである。
・芸術において真実なものは、生活においてもまた真実である。
参考文献 Susanne Deicher「Piet Mondrian」